昭和五十三年八月十日 朝の御理解
御理解第八十一節
氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。
十里を登り切って向こうえおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ 。
一つの願いというか、一つのおかげを受けて、やれやれ安心というのとは違うと思うですね、向こうへおりたら安心じゃというのは、一事二事のことが成就したからもうこれで安心じゃというのではない、御道の信心をさせて頂くものはいよいよ信心を進め、まことの信心を極めて限りない御神徳の世界に住みたい。一生が修行じゃ、とも、だから仰有る。
勿論、その修行というのは、有り難いものであり、同時にその徳が身についていくというものですから、楽しいものでもある、信心の世界をそういう風に、みなければいけない。
例えば、泉尾の三宅先生など、これ以上の修行は出来ないという修行をなさっておられる、もう、いつも、先生の御心は、世界助け、世界を救う、世界を助けたい、いやそういう願いが自分には掛かっておるんだと、もう、そう確信しておられます
ですから、もう大抵な修行でそう言うことが成就するとも思われませんから、まあ、私共が考えもつかんような修行をしておられる。
死ぬまでが修行、その為には自分のいつも使われる言葉の中に、「吾身どうなっても」という言葉を使われる、しかも、亡くなるときには、七転八倒の苦しみもいとわないと、云っておられる。
世界総助けの為にと、云うように初めから、そうではなかったでしょうけれども、段々信心が成長され、信心が大きくなられて、云うならば、神の願いを願いとしての信心に段々なられていく時にです、なら、天地金乃神の願いと云うのは、世界総氏子、身の上安全、世界真の平和、達成ということでございましょうから、そのことを実感としてやはり感じておられるという感じです。
なら、私はどうかというと、私もやっぱりそうなんです。
和賀心時代を世界に、十三日を世界に、和賀心になれば人間が幸せになるんだと、もう、絶対の道、生身を持った人間であるから、何処に、御粗末、御無礼があるやら分からんけれども、詫びれば、許してやりたいのが、親心と仰有る、その、親心にすがって、そこんところを十三日会 と云う、所謂、放生会である。
そういう宗教思想というものが、世界中に広がっていくときに、初めて世界総氏子の助かりがあり、世界真の平和は勿論生まれてくる、為にはどうでも合楽理念を世界の隅々にまで広げたい、しかも広げられる内容を持っておる。
所謂、もう、金光教教祖の教えの普遍性に富んでおるということ金光教という信心がこんなに素晴らしいんだ、こんなにも卓越した宗教であるという事は最近では宗教以前の宗教という風に、ここでは表現しておる。
天地と共に感じ、天の心がわかり、地の心がわかる、天地日月になること肝要 という、大変な至難な事の様ですけれど、誰でもその気になれば、それが完璧に ということは出来んにしても、この道を辿らせて行く事が出来る。
しかも、その道は、楽しう、嬉しう、しかも愉快に、天地のリズムに乗って修行が出来る、その気になれば誰でも出来る、というのが、私の、云うなら持論なんです。
ですから、やっぱり、皆さんもその気にならなけりゃ、駄目なんです。
まあ、断片的にはね、本当に親先生の仰有るとおりに、もう昨日も一日、万事万端の御都合お繰り合わせを頂いて、そのタイミングの素晴らしいこと、本当に一日の上に、商売の上に、家業の上におかげを頂きました、そういうお取次ぎを、毎日沢山の人から聞くんです。
有り難いの 信心ちや、と云うことになるのです、けれどもそれがね自分の周辺、自分の家庭の上にだけ、それが現われておったんではいけない、そこで次の信心の飛躍というか、大きな信心の祈り願いというものが、少しずつ成長して行かなければならないと云うことね、そこんところをおかげを受けたい。
昨日、今度の大阪講演会の為に先生方に配られるご本がでけて、私と、泉尾の先生のことが一杯、ここえ見えた先生方が泉尾の三宅先生を囲んで座談会をしておられる、その座談会の模様が合楽のことを、自分たちが何回も合楽に行って、まあ見てきたり、聞いてきたりしたことを、泉尾の先生に話しておられる。
それで、それに対して、泉尾の先生が合楽とは、合楽の先生とは、とまだ見たことがない、会うたことがない、けれども、こうではなかろうかと云うような意味のことをいろいろに表現しておられます。
三宅先生の言葉の中に「いや、私はまだ24歳ですよ」24歳で布教に出られたんですね、だから70何才の今日では、まだ24才の布教、いや私はまだ24歳ですよ、24歳でこの泉尾にきた青年教会長ですよ。
合楽の先生にお会いになった感じを皆さんから聞かせて貰い、確かに出来上がられた先生、本当に円熟なされていられる、大きい悟りを開いておられるなと思いました。お会いすることが楽しみです。私は未だ一求道者です。自分のことは一求道者と云い、合楽のことはもう出来上がった人だと想像しておる、というて居られるわけです。どうでも会うのが楽しみだと、今度の講演会を、私もそうですけれども、先生もやっぱ、ある意味で、好き心ですかね、楽しみじゃないでしょうけれども、そりゃ全然「だだめ」が違う。
泉尾の先生と、私と、云うならば、まあ、段で云うならば、そうですね、あちらが上等兵なら、こちらは二等卒くらいのものじゃないでしようか、その段違いの先生が、そういう風に今、云うて居られる、けども先生が云われるように、もし私が円熟して、もう出来上がっているとしたら、云うならば、もうこれで安心じゃ、と、云う中に居ることになるわけです。今日の御理解から、云うならば、もうこれで出来上がったんですから、もう合楽は、これまでだと云うことなんです。先生が求道者であると云われるように、私自身もおそらくは、死ぬるまで、求道していくことであろう、私も求道者に違いないね、又、こういう風にも云っておられます。
これは、若い先生方が、云っておられるんです、「先生は一求道者と云っておられるが、合楽の先生もやっぱりそうなんですよと、ということを、合楽の先生はその辺は、余りふれておられない、むしろ、私は、教祖の、ここまで歩けた、もっと教祖の所まで歩いていきたいと、云うところを、仰有っておられた、三宅先生の云われる、人類救済、と云ったような立場でなく、あの先生は、もう、教祖の後を辿りたいと、愈々、教祖の所を、極めたい、という信心のように、私は受けとめた、だから、その辺が先生と合楽との違い、と云えれるのではないでしょうか、という事なんですね、先生は、世界の、総人類救済ということ、もうそのことで、頭が一杯で、あんなさるよ、世界を駈け回られたことが、32回と、云うのがですからね、私の、場合は、ここに、先生が表現しておられるように、もう、ただ、教祖を極めたい、所謂、生神金光大神を目指して、やはり、求道し続けておる、云うのが、本当にそうだと、私は思うです。
おそらく、それで一生を終わるだろうと、思うです。いや、魂の世界に、入っても、やはり、そのことを求め続けていくことでしょう、ということが、合楽と、泉尾の違いと、云うけれども、実を云うたら、同じなんです。教祖を求める、というか、追求する、というなら、結局、和賀心を追求する以外には、ありません。為には、愈々もって、天地日月の心というものの、云うならば深遠さに触れて、それを自分のものにして行く精進、以外にありません。
なぜ、そうするか、云うなら、合楽教会大発展のご神願がご成就に相成りますように、これが、私の願い、泉尾の先生の場合は、世界人類の 総助け、というが、願い、いかにも、合楽が、自分の事だけ願っておるようであって、合楽教会、大発展のご神願というのは、そのまま、教団、金光教の発展につながることであり、世界総氏子、身の上安全、世界真の平和に、つながることなんです。
私の、ご祈念の中に、一番最後の所にございますように、どうぞ、和賀心時代を世界に、13日会を世界に、世界総氏子、身の上安全、世界真の平和達成の、ご神願が、成就に相成りますように、日本の平和と、日本の、繁栄を願わせて貰う、天皇陛下を中心に、日本国民の、愈々、助かりと、立ち行きを願わして貰う、その立ちゆきと、助かりは、世界総氏子の立ちゆき、助かりに、相成りますように、日本の、愈々平和と、繁栄は、そのまま、世界の繁栄、平和につながりますように、為には、まず、合楽教会がおかげを受けなければならない。
まずは、私自身が、おかげを頂かねばならんと、自分の家の前を、掃くのは、もう、世界の一部を清めるのと、同じだという訳なんです。
自分の前さえ、綺麗にしときゃよか、というて掃きながら、ゴミをあっちの方に、はねやったり、こっちの方え、はねやったりするのではなく、出来うるならば、自分の前を清めるということは、そのまま、世界の一部を清めていくんだという、しかも、それは、世界を清めていく、と云う事につながるための清めである、だから、理屈は、同じなんです。
昨日、そんなことを、研修の時に、いろいろ話しをさせて頂きながら、4時のご祈念をさせて頂きますときに、そのことを一緒に、ご祈念の時に、ご祈念させて頂きましたらね、私が、小さい、まあ、うちの4歳ぐらいの、うちの孫、ぐらいの子どもと一緒に、風呂に入れておるところを頂きました、風呂、と云うことは、極楽、と云う事です。
まあ、極楽と云うか、信心の喜びの、世界と云うことでしょう、暑い時でも、寒い時でも、お風呂に入らせて頂いて、一汗、パーっと流させて貰う、爽快な気持ちと云うのは、極楽、寒いときに、お湯で暖まらせて貰う、ああ、極楽、極楽と、お風呂の中で云いたい様な、心地よさ、と云うのが、そういう意味で、お風呂と云うことは、信心の、喜びの世界という事でしょう。
そこで、風呂に入ったら、入っただけでスーッと上がるというと、垢がついとるのなら、垢も落そう、ね より綺麗に磨きあげも、致しましょう、それがお風呂なんです、そうすると、小さい、4っか5っの子は、お風呂に入ると、遊ばれるけん楽しい、けれども、さあ、洗うてやろうというと、洗わんでよか、というて、こうこうやって逃げるでしょう、それで、ひっ捕らえといてから、こうやって、頭洗うてやったり、顔を洗うてやったり、体全体を洗うてやる、それが、云うなら、私の信心、だという意味のことを頂いた。
私自身は、お風呂に入って、清めもする、改めもする、磨きもする。そして、つれて入っとる、子どもも洗うてやる、子供は、いやいやというけれども、捕まえといてからでも、洗うてやる、それが私と、皆さんの姿だと思う、又、私と、修行生の間柄だと思う、毎日、又、今日もね又、研修せんならん、それでも、私が、強引に集めといて、今日は、誰誰が、出てきとらんごたあるが、そして、その、ふっ捕えといてでも、お風呂に入れようとする、だから、それが、育っていくということ、皆さんが、例えば、お風呂の有り難さだけではなくて、おかげの有り難さだけではなくて、お風呂に入ったら、研かんならんものだ、洗わなん、ものだと、自覚させて頂くと云うことが、真の信心を、目指すことなんだ。
もう、おかげさえ頂けばよか、お風呂に入りさえすればよか、やはり、洗いもしなければならん、研きもしなければならん、信心は、日々の改まりが第一、信心は、本心の玉を研くものという、信心本来の所に、心が使える様になる時に、云うならば、神の願いを願いとするという信心であり、所謂、真の信心の、入り口に立った、ということが云えれるのです。
いや、もう、私は、これ一丁貰えりゃよい、自分の願いが、一つ成就すりゃ、それでよい、というような事じゃないということがわかるけど、金光教の信心では、いわば、話しを聞きゃ助かるという、話しをして、本心の玉を研くことだよ、改まることだよと、そして、おかげを頂くんだよ、という風に教導する、まあ、私の信心は、そういう信心だと、けども、まあだ、私自身が、研きもする、改まりもすることに、楽しみと、喜びを持っておるけど、大概の人は、まだ、私と一緒に風呂にはいっとるだけ、そして、洗う段になると嫌だといっているような程度の人であり、その人達がいつの間にか、信心の成長が出来、いつの間にか一人前の、信心にならせて頂けることを願いとしておるのが合楽の信心、ね、そして、私が祈っておるように、世界真の平和を祈れるように、皆さんが、ならせて頂けるときに、皆さんが合楽理念を持ってして、おかげを頂き、こと、このことは、合楽理念を持ってするほかは無い、と云う様な信心を体得されて、云うなら、合楽理念の実証者として、おかげを頂いて、皆さんが一人前になられると云うことがこれからの合楽の信心だと云うことね、だから、これで安心、と云うことは無いのです、いつも教導されるのです、いつも成長を祈られるのです。
そして、次に頂きますのがね、ほんとに、何処まであるか分からん様な道に灯籠が、一杯、こう立っているところを頂いた、石灯籠、そして、一番手前のだけに光が入っている、ね
泉尾の先生の場合は、世界、所謂、人類の、世界の人類が助かっていくことが願い、として、大きな御用に立っておられるけど、結局、和賀心であるのは、先生だけ、光がついておるのは、ご自身だけ、世界の宗教家が全部集まるけど、その、宗教家たるものの信心を見ると、光を持ったものが一人もいない。
仏教から輩出された、キリスト教から出ておる、と云うような宗教家が沢山集まるけれども、ただ、形が石灯籠があるだけで中に光がない、これに、一つ一つ光を入れて行こうと云うことは、大変なことであろうと、私は思う、けども、その大変なことに取り組んでおられるのが先生である。どういう光を点じなければならんのか、信心の喜びだけでなくて、所謂、和賀心という心がキリスト教の方達も、仏教の方達も、このどういう素晴らしい教えがあっても、芯になるものは、和賀心ですよということを、説いていかなければ世界の平和、世界の光にはならない、信心なければ、世界は闇なり、と仰有る、信心なければ、世界が闇と云われる教祖の信心とは、和賀心を、芯にする。
その、和賀心には、一歳のおかげが受けられる、因縁も消える、罪も無くなってしまうというほどしの心が和賀心、だから、これを、一人一人に説いておいでなければならない、まあ、それこそ、夢のような、大変な、大事業に取り組んでおられる訳ですし、なら、私自身もやっぱり同じ心、自分の心の中にある、云うなら、この喜びをです、心に、御縁を頂いておる皆さんにも、それを分けて上げたいと云うて、一ぺんに分けて上げる訳にはいかない、なぜかと云うと、研かにゃ、改まらにゃ、光らんのですから、ところが、さあ、研き改まれというたら、かんぶり振ってから、そこで、ひっ捕えちから、こうやって洗ってやると云う事になって、それが段々五歳か十歳、二十歳となって成長していくのが、楽しみであって、それがもし、沢山の信者が、ここに、合楽に居っても、その成長を願わないとするならば、こげな悲しいことは無い、と云う事になるのです。ですから、私共の願いが、成就するということ、時には、もうやれやれ安心とせずにです、もうお願いして、それで安心ということで無くてです、次の願い、次の信心を願わして貰う、だから、云うならば、もう終わりは無いと云うこと、一つのおかげを頂いて、やれやれ安心と云うのではなくて、その信心を極めていく、それを教祖は、学者が歳を取っても、眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞい、と云われるように、学問が、身についていくのが楽しいから、あっ、こげん年寄りになってから、こげん難しい本ば読まんならんというて、学者は、悔やんではない。 信心者も、又、同じことなら、その修行というのは、身に徳がついて行くという事が喜びですから、それこそ、死ぬるときは、七転八倒の修行をしてからでもと、泉尾の先生の言葉を借りると、そう言うことになるのです。苦しい、その修行の中身に信心の喜びというものが、信心の炎と云うのが燃えておる、光が、輝いておる、だから、ここの所をです、私共は何時も、云うならば、そういう願いに立っての信心、まあ、云うならばです、私共が、お国替えのおかげを頂くまでは、この願いを持ち続けて、初めて、安心ということに、そういう願いを願い続けて安心と云う事になるのではないでしょうか、本当云うなら、魂の世界に入っても、やはり、いよいよ魂の清まりと、御霊の喜び、安心を、持たせてもろうて、限り無く進めて行かれることだろう。泉尾の先生は、世界人類の総助かりを祈り願ってあれだけの修行をなさっておられる。
私は、もう、教祖のところ、教祖の信心、生神とは、ここに神が生まれるということであって、皆も、おかげが受けられる、と、云うならば、広言しておられる。だから生神様にならんでんよかと云わずに、私自身はその生神を目指して日々精進させて頂いておる。その芯になるものは、和賀心、その手立ては、天地日月の心、そこでどういう場合であっても、天の心が知りたい、地の心が分かりたいと、いよいよ深めていくのであります。
しかも、その和賀心を十三日会を、所謂、和賀心時代を世界に広げていこうと、こういう、まあ、大変な、云うならば、大きな願いに立ってのことですけれども、合楽理念を持ってすれば、商売は繁盛する、健康管理は、合楽理念を持ってすれば、というように、そういうおかげの世界から、いよいよ云うならば世界総助けは、合楽理念をもってするほかは無い、と云うような事が分かり、それが祈りとならせて頂けるような信心が成長していかねばならないけれども。
皆さんの場合は、まあ、四つか、五つかの、お風呂に入ることは喜ぶけれども、洗って貰うのは嫌いだと云うような事じゃないでしょうか、成長せねばいけません、育つことを願わねばいけません、育つことによって、自分から進んで、洗いもしよう、清めもしようと云う心にならせて頂いて、初めて、限り無い喜びの世界、と云うものが開けて参ります。
お互いの信心が、七分八分目で止めたりするのではなくて、十里の坂を、九里半登っても安心してはならない。
まあ、泉尾の先生が、おっしやるように、合楽の先生はもう、円熟しきっておられる、もう云うなら、大きな悟りを開いて出来上がっておられると、云うなら、もうお仕舞いです。
だから、これは素晴らしいほめ言葉のようであって、実を云うたら、もう合楽は、これまでだというような風にも、受け取れるのです。
勿論、段々分かって下さる事でしょう、けれども、ご自分というのは、死ぬるまでが一求道者だと云っておられる。そう云う意味でなら、私自身も、なら、ここえ、三回か四回か来ました先生方が、私を見ておるように、合楽の先生は、「先生、あなたは人類救済で一生懸命だけれども、合楽の先生は、何処までも、教祖生神金光大神を目指して居られますよ」と云う風に云っておられるのが当たっておると思う、ですから、ここで一服とか、ここでよいとか云う安心が生れるはずがない、今日はそういう意味あいで、この、八十一節を聞いて頂きました。 どうぞ